本院マップ
1. 境内
神理教本院の参道
境内の桜
2. 大教殿
現在の大教殿は、大正八年に造営されました。
当時、教派神道では一番の大きさでした。
瓦の枚数は、約四万枚。
畳の枚数二〇四枚(式殿四十・拝殿一六四枚)。
奉納木額(奥より)
- 「神理無敵」 神道総裁 有栖川宮一品幟仁親王(明治十五年二月十七日)
- 「宇内 最上(うだい さいじょう)」 神理教場 山県有朋(内務大臣・総理大臣)(明治十七年)
- 「神理霊感 丁丑(ひのとうし)」 唐陰(昭和十二年)
- 「赫々(かくかく) 神理教」 伊藤博文(明治十七年)
神理教のあらまし
神理教は我国の古代神道を復活させた教派であり、高祖饒速日命[こうそにぎはやひのみこと]が天照大神より万民救済のため天璽十種[あまつみしるしとくさ]の神宝を授かった時にはじまり、その子孫が代々神事・神術を伝えて七十七代教祖巫部佐野経彦命によって祖述大成されたものであります。
十代五十言宿祢[いそことすくね](宗祖)によって五十言の言霊[ことだま]が解明され、十二代物部伊美岐[もののべいみき](先祖)は履中[りちゅう]天皇の詔[みことのり]をうけ全国を巡り悪病を平癒し、此地に天在諸神を奉斎し万民の信仰の基を定められ、十六代物部兄奇[えぐし]は雄略[ゆうりょく]天皇の御病を平癒せしめ、その功績により巫部の姓と日月五星[にちげつごせい]の御紋章(現在の教紋)を賜わり豊国[とよくに]巫部の始祖となられたのであります。
以来十代毎に伝書が書き改められ、七十七代教祖経彦[つねひこ]命によって明治二十七年一教として独立したのであります。
教祖神は天保五年二月十六日御生誕され、幼少より神童の誉れ高く、ご睡眠僅[わず]か四時間、著[あら]はされた教書千巻(二百七十部)御教歌ニ万余首といわれ、全国隈なく御宣教なられた御労苦は人間業とは考えられないのであります。かくして神人一致の境地に進まれた教祖神は明治九年十月十六日大神祠広前において、「汝のため又誠を守るもののために神はおかげを授ける」と天在諸神よりお言葉を賜り、名実ともに天津神理誠[あまつみことわりまこと]の道しるべ経彦明星大神[つねひこみょうじょうおおかみ]となられ、今もなお私たちの誠の守護神として御働きになっておられます。
- 奉斎主神 天在諸神[あめにますもろもろのかみ] 十八柱
- 配祀神 配祀諸神[あわせまつるもろもろのかみ] 十四柱
他に徳力山には造化宮(天在諸神を祀る)、大元稲荷神社、教祖神奥津城[おくつき]、巫部家奥津城があります。
本教はここ本院を中心に、北は北海道から沖縄に至るまでの教勢を維持しております。
- 大正八年に完成
- 昭和四十二年 瓦葺き替え 四万枚
- 昭和五十六年 大神祠修復 式殿 四十畳 拝殿 一六四畳
扁額紹介
大教殿上がり口に「赫々神理教」と右から左に彫られた扁額をご存知の方も多いと思われます。さらに、左端には、為書きがあり「従二位 伊藤博文」とあります。
伊藤博文公は、初代の総理大臣であり、その後数回も総理を務め維新後の日本の政治を支え築いた人である。御教祖は、明治十年頃より上京を繰り返し、政府要人・皇室関係の方々と親交を深め、明治十七年十月に「赫々神理教」の直筆を賜わったのであります。そのほかにも山県有朋・山岡鉄舟・杉孫七郎・小松宮彰仁親王など数多くの方々から親筆を賜わったのであります。
「赫々」とは、明らか・さかんなさま、を意味します。
3. 教祖殿
教祖明星大神は豊国巫部七十七代の裔にあたる。父君経勝大人は巫部の祖志をうけて教統を保全し、古神道復興の大願を教祖神に託した。
教祖神は、その遺志を体し刻苦勉励し、人の栄枯盛衰の理を明らかにせんと高祖伝来の教義神術の解明と研鑚につとめ、安政元年(一八五四・御年二一才)天津産霊考を著す。
神理を拡め世人を救済すべき神命を感得された教祖神は「目に見えぬ天津神術目に見せて人の誠の道しるべせむ」と宣らせ給いて天地の神に御誓いを立てられた。祖術の大成には寸暇を惜しまれ、神人一致の境地を目し、如何なる事もすべて神のはからいとされ、神告として活用され、その奥処を開拓されていった。
明治八年、企救郡誌五巻を太政官へ、豊前国史参考その他十数巻を宮内省及び内務省本局へ献納、同十五年神理図三巻を天覧に供し、皇族政府要人に各教書を献じ、それぞれ直筆を賜る。
明治九年、天在諸神より御神託を賜って以来、教祖神に教えを乞う人々遠近より集いご身辺は益々御繁多となる。翌十年衆生救済の御決心を固められ神理講社を開設、これが神理教の紀元である。教書出版・布教・子弟の教育など出費が多く、教祖神自ら清貧に安じ、これを神心とされた。所有する田畑山林も手放すの止むなきに至り、上京中の教祖神に伺いをたてると
「田も畑も何か惜まむ富士が根の高き心に糧を積みなば」
と御返事された。
明治十三年七月十九日、神理教本社として公認される(御年四十七才)、しかし、古神道の復活と教義の確立に迫られた教祖神は以来十四年間布教の傍ら一教独立を遂げるために運動し、ついに明治二十七年十月十九日一教独立を果たす。
明治三十二年七月一日より二十一間、徳力山上に祭場を設け、世界平和大祈祷を修行される。下山にあたり「真神は天在諸神にして天地に先立ちて存在し天地を創造し玉える親神なり。即ち神の神たる神にして霊の霊たる真理の大神なり」と宣らせ給う。
明治三十九年十月十六日御昇天。天津(あまつ)神理(みことわり)誠道(まことのみち)知部(しるべ)経彦(つねひこの)命(みこと)と御諡を奉る。
大教殿と同じ年に完成
天保五年二月十六日 教祖生誕
木額 邪教悪魔降伏乃処 彰仁親王
4. 造化宮
由来書
造化宮は饒速日十二代物部伊美岐が履中天皇の詔をうけて全国の疫病を平癒し九州に下りこの地に神籬を建て天在諸神を祀り万民安全を祈念され信仰の大元を定められたと伝えられる。
雄略天皇の病を平癒した十六代物部兄奇はその功により天皇より巫部の姓と日月五星の御紋章を賜わりこの地に居をおくこれが豊国巫部のはじめであり本教の発祥である。
以来幾多の変遷があったが七十七代教祖経彦命本教を興すに際し新たに社殿を設け本教の奥の宮として奉斎する。
祭神は造化三神を中心に天在諸神十八柱を祀る。
造化天神社 由緒
往古徳力山ニ鎮座アリテ、天在諸神祠又造化大神宮ト稱シ、豊國巫部奉仕スル處タリ。
永禄十二年豊前國京都郡松山城主杉氏再建。
慶長三年三月小倉城主森壹岐守再建。
其後細川越中守忠興朝臣信仰厚ク、殿宇祭器等寄附アリ。
細川氏肥後ニ移轉後、社地廢頽シ、慶安年間今ノ地ニ移轉ス。
所藏ノ神鏡裏ニ天平三年トアリ。
以テ當社ノ古社タルヲ徴スルニ足ル。
御祭神
- 正殿 別天神(ことあまつかみ)・神世七代(かみよななよ)
- 左殿 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
- 右殿 豊受媛神(とようけひめのかみ)・歳徳神(としとくのかみ)
企救郡誌より抜粋
現社殿は、平成六年四月、本教独立壱百年の記念事業により建立。
(前社殿は、明治三十六年、独立十年・教祖古希を祝し、建立。)
手水舎
平成六年四月、本教独立壱百年記念として広島県福永教会三角清三師より寄贈。
木額 「設神理以奨俗」(しんりをもうけもってならわしをすすむ)
明治十七年十月、山岡鉄舟より寄贈。
山岡鉄舟 天保7年(1836)~明治21年(1888)
西郷隆盛と勝海舟の会談を実現させ、江戸城無血開城の立役者である。
剣・禅・書の達人として有名であり、徳川慶喜に仕え幕臣として活躍。後に茨城県参事など歴任し、明治天皇の教育係として10年間仕えた。幕末の三舟の一人。
・春秋大祭は、先ず造化宮の祭りから始まる。
5. 大元稲荷神社
当社は古来豊国巫部の邸内に鎮祭されたものでその勧請年代は定かでない。
文化年間(1804~1815)御教祖の父右七経勝翁が巫部の守護神として祭祀するべく御神託をうけ伊勢外宮より御分霊を奉載した。これを社の中興とする。
御教祖幼少のころ小倉藩国学者西田直養翁のもとへ通学の時、毎夜絶えず前後を守護するように白狐あり、その後神理を究めんと行する教え子に数々の神助霊応が絶えず昭和六年秋境内よりこの地に遷座する。
本教に奉仕する人々の守護神であり且つ農工商の広きに亘って霊験著しい。
昭和四十七年春改築する
・大元稲荷参道に、文化八年(1811)の石鳥居がある。
祭日
初午祭 | 二月 初午 |
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春季大祭 | 四月 第三土曜日 |
夏越祭 | 七月 第二日曜日 |
秋季大祭 | 十月 第三土曜日 |
太政大臣正一位公爵三條實美卿筆 「錦雲深処」
三條實美 天保8年(1837)~明治24年(1891)
尊皇攘夷派公家の中心的存在であったが、文久3年(1863)尊皇攘夷派の京都追放をねらった8月18日の政変が起こり、七卿落ちの1人として長州に下る。王政復古後、新政府の議定、副総裁、右大臣、修史局総裁などを歴任。明治4年(1871) 太政大臣に就任、18年の太政官制廃止までつとめた。内閣制度創設後は内大臣となり、一時臨時首相を兼任した。
6. 明星会館
大祭・講習会時の宿泊や、直会・会議など、スペースゆったりの会館です。
直会・会議など、ご使用お申し込みは、大教庁へ。