神理教はこんなところ
神理教はこんなところ
神理教はどんなところですかと聞かれても、ここで長く生活をしている私たちにはお応えしにくい部分もあります。
初めてお越しになった方を境内に案内すると、「広い所ですね」とか、秋だと「下手な名所よりは紅葉がきれいですね」とか、秋でなくとも「心温まる目に優しい神の森ですね」と言って下さいます。
始めに正門とそれを囲む建物を見た時には敷居が高い印象を感じられる方もおられるようですが、中に入るにつれてかなり別の印象をお持ちになるようです。
どこの本部でもそんなことがあるのでしょうが、「静岡県から神の声に導かれるままにたどり着いた」とか、徳力山の造化宮で「真っ青で清明で他にはない巨大な神の気を感じる」と言われる方もいます。
『来る者拒まず、去る者追わず』が神理教の教風ですから、ご心配なくお越し頂き大きな御神徳をお受けになり心の安らぎを味わいお楽しみ下さい。
教義の入り口(悟り)
「神理教の悟りは何ですか?」と聞かれることがあります。
難行苦行をしなくても、神理教の教信徒は自覚さえあれば、いきなり悟りが開けているといって過言ではありません。
神理教の教えは奥も深いけれど、境内と違って入り口も広いのです。
難行苦行をしなくても、御神徳は直ぐそばにあり、私たちはそれに気づかないだけなのです。
難行苦行をする人や教団にお金を払い物を捧げれば御利益がある、との勘違いしている人が世の中には多いようです。
宗教への誤解や勘違いは、この辺りに大きな原因があるようです。
神道の悟りへのキーワードは『祓い』です。
お金を払ったり物を捧げるのは、参加費やご利益への御礼ではなく、自分自身の祓いであることに気付いている人は少ないようです。
悪い事や良くない思いをしないだけではなく、敬神尊祖の心を持ちながら自分の祓いを心掛ければ悟りはそこにあるのです。
御神徳はご神前や御先祖の前から尽きることもなく大量に流れ出ているのに、それを受けることが出来ないのは罪穢れを祓うことをしていないからです。
修行の場は難行苦行の場にあるのではなく、毎日の生活にあります。
あるいは厳しい日常の生活の中でも、悪い事や思いを持たないことを心掛けながら、神社や神理教の本院や教会に参り、心なくも犯した罪穢れを祓う気持ちを持てば、御神徳と悟りは目の前にあるのです。
祓いの方法は幾つもある中で、一番短い言霊(ことだま)は『我が心清々し』です。
「自分の心は清々しいのだ」と誇るのではなく、言葉の神霊の力で自分と周囲の人の心を祓い清めて頂くのです。
まずは『我が心清々し』を、時間がある時に何度も唱えることをお試し下さい。
必ず悟りと神徳を頂く条件である『祓い』が出来、人間が本来頂くべき幸せが訪れることでしょう。
徳力の地名の由来
神功皇后、新羅出兵の際、当地より船建造の木材を採ったとのことで、「徳利木」と名付けられた。
慶長年間に、現在の「徳力」となった。