神理教の住所

TOP

教え

歴史

ご報告

各講習会など

教書・カタログ

交通アクセス

古神道 神理教 各祭事・催事の報告

 春季大祭

 御神拝DVD

独立120年・教祖生誕180年、式辞資料

 四月十五・十六日、本院春季大祭は盛大に執り行われました。

 時折、桜吹雪が舞い、眩しい陽光に恵まれ且つ参拝された方々の笑顔が境内に広がりました。

 奥の院、造化宮より祭典は順調に進み、午後一時からの本殿祭の頃になると、さらに人数が増えて、青年部や婦人会の皆さんは準備や対応に追われていました。

 本殿祭で、管長様は御教祖の御歌を元に、神様と人との繋がり、干支にまつわる様々な事柄などをお話し下さいました。

十六日十時より、御教祖の奥津城では、墓前祭が執行されました。大阪枚方教会の村田充男先生がご奉仕されました。先生は、春秋の大祭や講習会などほぼ皆勤されています。本院中心主義を貫かれている先生です。此処も時折桜の花びらが舞い落ち、厳かな中に風情も感じました。御教祖を称え尊び偲ぶ心は、百十余年も篤く引き継がれていることを体感させていただきました。

『神は人の敬ひによって威を増し、人は神の徳によって運を添ふ』の言葉通り、祭官参拝者大勢の祈りによって、神様の神威は高揚し、神様と私たちの絆も太く強くなり、幸せへと導いてくださるのです。

 秋の大祭は、十月二十一・二十二日(土・日)です。ご家族でお参り下さい。

年間行事

おしらせ

拝礼作法・神理教の歌

神葬祭・霊祭・ご祈祷

 献饌式

 

   

   

 造化宮・大元稲荷神社 大祭

    

   

   

 

 本殿祭

   

   

   

   

 教祖墓前祭

   

   

   

   

 

 夕べの集い

   

   

   

   

 

 境内

   

   

   

 

このページの先頭へ

 御神拝DVD

 この頃、社務所にて「自宅の神棚で拝む時、どの祝詞を奏上すれば良いのですか?」との質問を多く頂きます。代替わりや新たに神殿を設けた方からの問いですが、『信徒の祝詞』をお渡しし、奏上すべき祝詞についてお話します。と同時に、テンポや区切りなども尋ねられる場合には、御神拝のDVDも授与しています。本院の朝夕御神拝では、まず教祖殿にて清祓詞・大祓詞・教祖神拝詞を奏上。引き続き大教殿にて清祓詞・日拝祝詞・祈念詞・神言を奏上します。 このDVDは平成七年に撮影された映像を焼き直した物で、斎主は第四世管長様です。約六十年の永きに亘り管長を務め、多くの人に救いと安心を与えられ、その祝詞は正に「言霊」です。

祈りは真心から為され、心は自然と形に表れます。当DVDより形を学びとられ、皆様の充実した信仰生活の手助けにお使い下さい。

授与額 千円

このページの先頭へ

 独立120年・教祖生誕180年、式辞資料  平成26年4月20日、記念式典

 ・51歳の時《明治17(1884)年》、3月に伊勢神宮教との神璽[しんじ]授与如何[いかん]の経緯[いきさつ]があり、有栖川宮幟仁[ありすがわのみやたかひと]親王御殿内鎮祭の皇大神の御神鏡を御令旨と共に賜りました。この後も拝謁[はいえつ]・交流を重ねますが、詳細は[参考文献]の両親王の日記と教祖の日誌から照合出来ます。

 《同年》、9月に東京駿河台のニコライ司教と問答し、神道の低劣を説く論拠を打破し、神道が自然・正統である由縁[ゆえん]を伝えました。(教派神道の形成{ニコライ問答}[参考文献]』等)

・53歳の時《明治19(1886)年》、門司浦開墾の門司・楠原両村より依頼の定約書が出来ます。

 この頃から門司港開港に向けて主に蒲生神社高山定雅宮司と共に、漁業・地権の条件等含めた地元との交渉に足繁[あししげ]く往[ゆ]き来[き](片道約10km)します。

 独立運動や著作・布教と並立して門司開港の大事業を行う熱意・気力・体力は、想像を絶する大きさです。父経勝から伝えられた『此の世に足りない所を自分の出来る事で補[おぎな]う』という精神は、本教の独立のみに拘[こだわ]らない柔軟な発想です。

 この事業は開始の条件が整うと同時に、当時の日本の財界人を後[うし]ろ盾[たて]にした企救郡津田郡長に、県への届け出書類を騙[だま]して横取りという形で委譲[いじょう]させられます。地元の財力では難しいという理由とのことでした。教祖は結果的に目的を達したと思われたか、格段に怒ることはなかったようです。明治32(1899)年に門司築港株式会社より功労として頂いた本院への銀杯と金一封を笑って受けたと伝えられます。

・54歳の時《明治20(1887)年》、1月21日に出立し中山道の各所に布教した時の有り様を、【…和田峠を越え玉[たま]うや時は、之[こ]れ厳冬山国[げんとうやまぐに]の寒威[かんい]最[もっと]も凛冽[りんれつ]を極[きわ]め、道路の氷雪[ひょうせつ]滑[なめ]らかにして御足を辷[すべ]らし転倒し玉うこと幾回なるを知らず。終[つい]には袴[はかま]の裾[すそ]の湿[しめ]りし所は凍[こご]えて玻?片[がらすぎれ]の如[ごと]く。之れに摺[す]れて御足はただれ、鮮血[せんけつ]湧[わ]き出[い]で点々[てんてん]紅[くれない]を印[いん]し、御髭[みひげ]さえ氷にとじられて針の如く、風之れを拂[はら]えば折れて地に落ち。

 加之[しかのみならず]日は既[すで]に暮[くれ]んとするを以[もっ]て人家[じんか]に就[つ]いて一泊を求め玉うも、その御姿を見て皆畏怖[いふ]し、病者[びょうしゃ]ありと稱[しょう]して肯諾[こうだく]するものなく。その御艱難[かんなん]のほど筆を取りて記[しる]さんすら悚然[しょうぜん]として、夏尚[なつなお]寒[さむ]く慘然[さんぜん]として暗涙[あんるい]の下[くだ]るを覺[おぼ]えず。…】と『教祖御小伝(参考文献)』にあります。『教祖様の面影[参考文献]』に、この時詠[よ]んだ二首の歌、

『御名方[みなかた]の 神はいずれに 逃げしかな やみて宿かす 人のなきとは (国譲[くにゆず]り神話にある武甕槌神[たけみかづちのかみ]に追[お]われ諏訪[すわ]に逃げた健御名方神[たけみなかたのかみ]を村人に例え、又逃げられるかとユーモアを含め呟[つぶや]く歌)』と、

『立ちならぶ 梢[こずえ]を陸[くが]のしるしにて 雪に埋[うず]もる 諏訪のうなばら(立ち木が湖の境としか分からない位雪深い、厳しくも美しい諏訪の自然に感歎する歌)』があります。

独立

・61歳の時《明治27(1894)年》、10月19日神理教『教規』を内務大臣・野村靖より認められ、一教独立を果たし初代管長となりました。

 同月25日、明治天皇の銀婚式奉祝の為に本教に伝わる『五十言伝[いそことでん]』を謹写献納し、宮内大臣より陛下御嘉納の御沙汰書を賜りました。

 一教独立の管長は、当時勅任官待遇[ちょくにんかんたいぐう](県知事級)となり、こうして陛下に手紙等を差し上げることを許され、又お返事も戴けたのでした。

《耶馬溪博士[やばけいはかせ]・田能村竹園[注:たのむらちくえん]の本院[ほんいん]逗留[とうりゅう]の経緯[いきさつ]、『教祖様の面影・神理誌[参考文献]』より。

 独立に前後して教えの修得・見学・冷やかし・討論等の目的で、一般・貴顕・学者・文人・芸術家等、多くの人が来院します。

 注:竹園[ちくえん]=嘉永2(1849)年〜帰幽[きゆう]は未詳[みしょう]大正12(1923)年生存。本姓は松田彦六・豊後(大分県)下毛郡[しもげぐん]城井村の紺[こう](染物[そめもの])屋[や]に生誕。田能村直入[注:たのむらちょくにゅう]の弟子。耶馬溪の地誌に詳しく竹田をしばしば案内する内に師事することになり、自らも耶馬溪を描き『耶馬溪図巻』の著もある。絵師・造園家。

注:田能村直入=文化11(1814)〜明治40(1907)年。本姓は三宮伝太。絵師・造園家、明治24年に京都南宋(文人)画学校を開いた。田能村竹田[たのうらちくでん](安永6{1777}年〜天保6{1835}年。)の弟子。

 例えば、『教祖様の面影』に、【…文人画伯で有名なる耶馬溪博士[やばけいはかせ]・松田竹園翁[ちくえんおう]の話に、

『先年、藤井董一郎(地元徳力・まだ教祖に批判的だった)氏の宅に遊ぶ内に、小倉の安広 伴一朗氏の宅に行くこととなりました。愈々[いよいよ]出立という時に「近くに佐野経彦という人あり。

 面白き人なり。行きがけにちょっと面会しては如何[いかに]」言われました。特に褒[ほ]めるでもない言い様でしたが、どんな人か試みに会うて見むと立ち寄りし処、恰[あたか]も古事記の講義を多くの門人に授けありし故[ゆえ]、それを傾聴[けいちょう]してみるに、中々名演説がありました。

 終わりて御居間に通されて種々[いろいろ]伺[うかが]いました所、次から次と御話が出まして其[そ]の日も暮[く]れ、翌日[あくるひ]もまた翌日もという様に日が経[た]ちまして、小倉の安広家には行けぬ様になりました。安広家からは再度の使を受けましたが之[これ]を断[ことわ]り、そのまま半年余りも本院に滞在して教えを受け、終[つい]に入門させて頂きました。』】とあります。竹園[ちくえん]は後(明治38年)に、本院境内に教義を形にした心字池[しんじいけ]を含む神成園[かんなりえん]を完成させます。》

 著者の藤江伊佐彦師も、それまで幾度も会った神仏の管長とか大家・学者は思ったほどではなかったので、教祖も同等と思い見くびっていたそうです。

【…所[ところ]が、一度[ひとたび]御目通[おめどうり]をして見ますれば、意外にも意外、大いに予想外で眩惑[めくらみ]せむばかりでした。人は眩惑[めくらみ]すると可否[よしあし]も判[わか]らず、無闇[みやみ]に尊信[そんしん]とか迷[まよ]うとかする様になるという事くらいは疾[と]くに心得ていますから、この時には、自己の意外なりしに眩惑[めくらみ]せぬ様に警戒[けいかい]しておりました。所[ところ]が、教祖様は御丈五尺[おんたけごしゃく](1m50cm)内外[ないがい]、中肉[ちゅうにく]にまして、始終[しじゅう]にこにこと笑[えみ]を含[ふく]み給[たま]いたる円満の神相[しんそう]人格に、自然と備わる御威光厳[ごいこうげん]として侵[おか]し難[がた]き処[ところ]あり。

 寛宏[かんこう]にして自[おのずか]ら百川[ひゃくせん]を呑[の]むの概[がい]を有[ゆう]せられ、人に接しては壁垣[かべかき]を設[もう]け給わず、無邪気なること魚の泳ぐにまかする深淵[ふかちふち]の如[ごと]く、来[きた]り訪[おとな]う者を迎えては慈母[じぼ]の幼児[ようじ]を膝[ひざ]にのせるが如く、物に対して悦[よろこ]び給うこと幼女が手まりを得て之[これ]を眺[なが]むる如くにましませり。

 又、従って問えば従って答え給うこと恰[あたか]も大鐘[おおがね]の如く、打ってかかるしゆ木(撞木[しゅもく]=鐘を鳴らすT字形の棒)次第に大は大、小は小と、各々名論卓説[めいろんたくせつ]を与え給う処、神か人か。如何[いか]にしても知り給うべきはずなき難問を以て向い奉りても、易々[やすやす]掌中[てのうち]の物を指すが如く答えを垂[た]れ給えり。而[そ]して、御着眼[おんめのつけよう]の高き事・御抱負[おんのぞみ]の深く遠き事、数千年の昔に孔[こう]・老[ろう]・仏[ぶつ]・耶[や](過去の偉人と言われる孔子・老子・釈迦・キリスト)を踏みて万年の未来に一またぎに達し給える心地[ここち]が致[いた]しました。

 それより談論[だんろん]益々[ますます]佳境[かきょう]に入りまして、お食事の御案内再三に及ぶにも御頓着[ごとんじゃく]なく、終[つい]に深厚[しんこう]に及[およ]んで御内寮[ごないりょう](教母・集義子)の注意を受け、漸[ようや]く御暇[おいとま]を給[たま]わりて退下[たいげ]しました。…(中略)…兎[と]に角[かく]、丸呑[まるの]みに呑[の]まれて、真心から敬服して、自ら生まれ変わった気が致しました。】とあります。

 藤江伊佐彦師は翌日権少教正という、当時でも異例の高職級を飛びつきで受けています。

 藤江師は幼い時より仏門の修行を積み、教祖との邂逅[かいこう]時は他教派の教師で武芸者のように、他門を叩いて宗教問答を闘わせた人のようで、教祖もその相手の一人だったようです。

 この文の…知り給うべきはずなき難問を以て向い…を見ても、教祖を論破しようという 意気込みに [あふ]れていたのではないでしょうか?

 宗教論議を挑む他の学僧等[がくそうなど]より、余程[よほど] [てごわ]い相手だと思われますが、教祖の前に人柄のみならず教義でも敬服・同調し、直ぐに入門することとなり、教祖もその人格[じんかく]・識見[しっけん]を認めて、この職級に付けたのだと推測します。

 藤江伊佐彦師は、教祖最後の愛弟子[まなでし]の一人と伝えられています。

 教祖が誰に対しても動じることがないのは、その人格のみでなく理念と教義大系が至上であることを、教祖自身の東方正教会のニコライ等、多くの宗教論議の中で体得していたからだと思われます。私達も、その信念を以てまず教義を学び実践[じっせん]に活かせば、胆力[たんりょく]も練[ね]れて自信が持て、これを以て他教の人と議論してもゆとりを持って話せるし、困った人を助けるにも安心感を与える事が出来るのです。

・62歳の時《明治28(1895)年》、4月4日次男高嶺[たかね](数え25歳)・日吉惣助総務局長・日吉 岩吉准教正を供に、船で広島に到り19日大本営(日清戦争)に詣[もう]で天[てん]機を伺[うかが]い(明治天皇に拝謁[はいえつ])『天学創見[てんがくそうけん]』(明治天皇献上の為に作成した本教の教義解説書)を奉[たてまつ]りました。

 同月伊勢・熱田両神宮に拝し・東京に至り3人を帰し、是[これ]より1人で前述の重荷(7〜11kg)を担い、5月27日より東京を発し、関東・東北・北陸・近畿・中国を巡り7月5日に帰りました。《全国巡教72日間》この布教では多くの入門者がありました。この途中神戸で、

【…御服は、四月に本院をご出発の当時の白衣そのままに御着通[おきどお]しにて神戸まで御帰着、美玉教会[みたまきょうかい]に御一泊遊ばしましたが、当時の教会長・故守安善三郎教正[こ もりやすぜんざぶろうきょうせい]の話に、

「教祖様の御服は衿[えり]も袖[そで]も破[やぶ]れ、鼠色[ねずみいろ]とも茶色とも判[わか]りかねる程で、而[しか]も土用[どよう]に袷[あわせ]ですから、早速に新調して御召替[おめしかえ]を願いましたる処、

注:土用に袷=出発が四月に袷(裏地付きの春秋用の着物)で出立したのだが、神戸に着いた時の季節が夏であり、季節はずれであった。

「はい。未[ま]だ着らるるから之[これ]で宜[よろ]しい。づめ着たので汚れたから、河で洗って乾くまで裸で日誌を書く処へ巡査さんが来て、づめ叱った。

注:づめ=もっぱら一つで通す事。

 だんだん話す内に入門の約束をした事がある。はい。是でもまだ本社まで還[かえ]らるる。」と仰[おお]せられて一向に御脱ぎになりませんので、一策を案じ、御風呂をすすめ参らせ、強[しい]て御入浴を願い、守安氏は御道の御話を申上げつつ御背[おせな]を流し参らせば、教祖様は御心に叶[かな]いけむ、急に御上りの様子がない。その内に古き御召物[ごめしもの]を隠して新しき白衣に替えて置きましたら、暫[しば]らくは兎[と]み角[こう]みしていられしが、にっことして無言のまま御召替になりて、何の仰[おおせ]もなく、ただはいはいと宣[のたま]いしのみ、…」と…】と『教祖様の面影[参考文献]』にあります。

注:兎み角み=と見こう見、あちらを見たりこちらを見たり。

                         (作成中の新初めての神理教から抜粋)

このページの先頭へ
TOP
教え
歴史
ご報告
各講習会など
教書・カタログ
交通アクセス
北九州市小倉南区徳力5−10−8 神理教大教庁