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古神道 神理教の教祖殿

御教祖様の像

神理教の教祖殿

神理教の教祖殿
鳥居

 教祖殿前

 教祖明星大神は豊国巫部七十七代の裔にあたる。父君経勝大人は巫部の祖志をうけて教統を保全し、古神道復興の大願を教祖神に託した。

 教祖神は、その遺志を体し刻苦勉励し、人の栄枯盛衰の理を明らかにせんと高祖伝来の教義神術の解明と研鑚につとめ、安政元年(一八五四・御年二一才)天津産霊考を著す。 

 神理を拡め世人を救済すべき神命を感得された教祖神は「目に見えぬ天津神術目に見せて人の誠の道しるべせむ」と宣らせ給いて天地の神に御誓いを立てられた。祖術の大成には寸暇を惜しまれ、神人一致の境地を目し、如何なる事もすべて神のはからいとされ、神告として活用され、その奥処を開拓されていった。

 明治八年、企救郡誌五巻を太政官へ、豊前国史参考その他十数巻を宮内省及び内務省本局へ献納、同十五年神理図三巻を天覧に供し、皇族政府要人に各教書を献じ、それぞれ直筆を賜る。明治九年天在諸神より御神託を賜って以来、教祖神に教えを乞う人々遠近より集いご身辺は益々御繁多となる。翌十年衆生救済の御決心を固められ神理講社を開設、これが神理教の紀元である。教書出版・布教・子弟の教育など出費が多く、教祖神自ら清貧に安じ、これを神心とされた。所有する田畑山林も手放すの止むなきに至り、上京中の教祖神に伺いをたてると

「田も畑も何か惜まむ富士が根の高き心に糧を積みなば」と御返事された。

 明治十三年七月十九日、神理教本社として公認される(御年四十七才)、しかし、古神道の復活と教義の確立に迫られた教祖神は以来十四年間布教の傍ら一教独立を遂げるために運動し、ついに明治二十七年十月十九日一教独立を果たす。

 明治三十二年七月一日より二十一間、徳力山上に祭場を設け、世界平和大祈祷を修行される。下山にあたり「真神は天在諸神にして天地に先立ちて存在し天地を創造し玉える親神なり。即ち神の神たる神にして霊の霊たる真理の大神なり」と宣らせ給う。

 明治三十九年十月十六日御昇天。天津(あまつ)神理(みことわり)誠道(まことのみち)知部(しるべ)経彦(つねひこの)命(みこと)と御諡を奉る。

大教殿と同じ年に完成
天保五年二月十六日 教祖生誕
木額 邪教悪魔降伏乃処 彰仁親王

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北九州市小倉南区徳力5−10−8 神理教大教庁